于禁(う きん)?〜220代?

・字は文則、泰山郡鉅平県の人。曹操が州を支配した頃に上司であった王朗に見いだされ、曹操に目をかけられるようになる。呂布戦や張繍戦、袁紹戦などで奮戦し、曹操に信頼された。厳格で私心を持たなかったが、法で厳しく取り締まったので、兵士たちにはあまり好かれなかった。樊城の救援の際に洪水に遭って関羽に降伏し、帰還したのちに曹丕に辱められ憤死。諡は侯。
・その最期のおかげで「情けない奴」と思われたり嫌われていたりしているが、それだけで彼の人生を否定してしまうのはあまりにも酷である。悳の邪魔をしたり命乞いをしたのは悳の最期をより悲壮に見せるための『演義』の創作。
ちなみに「」の表の意味は「はげます」または「きびしい」、裏の意味は「わざわい」である。


袁渙(えん かん)?〜210代

・字は曜卿、陳郡扶楽県の人。豫州の刺史であった劉備に推挙された。袁術に仕えていたとき呂布に捕まった。呂布に劉備の悪口を書くよう脅迫されたときに、平然として笑いながら「私は徳だけが人に恥辱を感じさせることが出来ると聞いています。罵りであるとは聞いていません。私は以前劉将軍に仕えていましたが、ここを去ったときに将軍を罵倒してもよろしいですか?」とこたえ、彼を黙らせた。呂布が死んだ後曹操に仕えることが出来た。清廉なことで知られ、礼に従って行動した。思いやりがあり、人々に慕われたという。
・『演義』には出てこない。血わき肉踊る場面には関係ない人なので仕方ないのかもしれないけど、こういう渋い脇役も味があります。


楽進(がく しん)?〜218

・字は文謙、陽平郡衛国県の人。小柄ながらも剛胆さを持って曹操に見いだされ、呂布戦、張繍戦、袁紹戦などで数々の功績を挙げる。後に張遼、李典とともに合肥を守り、右将軍に任ぜられる。諡は威侯。
・言わずと知れた五大将の1人。とにかくその戦歴は数多く、「驍勇果断であった」と陳寿に評されているくらいである。ただ、具体的な記述に欠けるもので、本伝の記述も物足りないくらい短い。これというエピソードもほとんどない。だから『演義』では脇役なのか?ちなみに彼が右将軍だった当時、于禁が左将軍で、徐晃は楽進の後に右将軍になっている。于禁と楽進は曹操軍の中でも最古参なので、徐晃よりも将軍位が高いのは当然と言えば当然だが、もちろん実績もあるということであろう。


荀攸(じゅん ゆう)157〜214 荀一族系図

・字は公達、潁川郡潁陰県の人。荀の年上の従子。同志と董卓暗殺を計画、失敗して捕らえられるが、獄中でも平然としていた。董卓の死後助かり、荊州にいたところ荀いくの推挙で曹操に仕える。呂布戦、袁紹戦などで的確な献策をし、勝利に貢献した曹操軍前半期の功労者。謀臣のトップであり、魏建国の際に尚書令に任ぜられた。その頼りなさそうな容貌からは想像もつかない知略と勇気を持っており、曹操を感嘆させている。孫権征伐の途上病死。諡は敬侯。
・某ゲームのせいで?内政派と思われがちだが、じつはばりばりの戦術家。内政経験は晩年の数年なので詳しいことは分からないが、戦術に関しては三国屈指。特に戦場で臨機応変の策を立てることにおいてはかなう者はいないかも。策略だけでなく、曹操に認められたその人柄は、陳寿や裴松之からも愛されている。(荀もだけどね)

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曹仁(そう じん)168〜223

・字は子孝、沛国しょう県の人。曹操の従弟。若い頃から弓馬に通じ、手勢を引き連れ曹操の旗揚げに馳せ参じた。河北が統一されるまでは騎兵を率いて数々の軍功を上げた。三国の要衝である荊州の守りを任され、周瑜と対峙したときは1年あまりの攻防で退却を余儀なくされるが、のちに洪水に遭って樊城を関羽に囲まれた際は、将兵を激励して持ちこたえた。曹丕からの信頼も厚く、大司馬にまで昇進する。3月19日死去。諡は忠侯。
・『演義』を読んでから正史を読むとまるで別人。「曹仁ってこんなにすごい人だったの?」と思ってしまうだろう。知勇兼備で張遼並(以上か?)の名将。『演義』の彼は曹一族と言うことで割を食っているにしてはあんまりかもしれない。やはり関羽と(周瑜も?)いう人気者と直接戦ってしまったというのが重大な問題なのだろう。徐庶を引き立て、諸葛亮を引き立て、周瑜を引き立て、挙げ句の果てには味方の満寵までも引き立てている。ここまで来ると引き立て役ぶりも見事としか言いようがないかも。それはともかく、実際問題としては、一族の人間とはいえ三国の要衝に無能な将軍を置くかっての。

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李通(り つう)168?〜209?

・字は文達、江夏郡平春の人。おとこぎをもって知られ、軍勢を率いて曹操に身を寄せる。汝南に駐屯し、張繍戦や江陵防衛などで功をあげる。袁紹に誘われたが、一族や配下の反対を押し切って袁紹の使者を斬り、曹操への忠誠を示した。江陵では、周瑜に包囲されていた曹仁を救ったときに、馬から下りて逆茂木を引き抜いて、包囲陣に突入したという武勇の持ち主。張遼と同じ諡をもらったと言うところからも、その武勇のほどがうかがえる。42歳で死去。諡は剛侯。
・ちなみに彼の幼少の頃の字は「万億」というらしい。そういえばこの人、『演義』では馬超に一撃で突き殺される役だそうな・・。本当はこの時期には死去してます。この人もえらい違いだ。でも袁尚に殺される史渙よりまし?(袁尚ファンの人、すみません)


李典(り てん)180代?〜210代?

・字は曼成、山陽郡鉅野県の人。曹操に従っていた従父の李乾と、その息子の李整の死去後、跡を継いで曹操軍に参加。夏侯惇に従軍した際に、劉備軍の伏兵を見破り、彼を救援した。合肥では不仲であった張遼に「これは国家の大事です。個人的な恨みで公義を忘れたりしません」といい、ともに孫権軍を撃破した。学問を好み、争いを好まず慎ましい性格の持ち主で、軍部での評判も良かったが、36歳で夭折。諡は愍侯。
・『演義』では最初から登場するが、実際に彼が戦場に出たのは官渡の戦いの頃が最初で、実際には李乾が董卓戦頃、あるいはその直後に従っていたのでした。と言うことは、『演義』では李乾おじさんの代わりに出ていると考えていいのかも。そもそも歳を計算すると、董卓戦の頃は、まだ10代前半・・。


(しょう えん)?〜246

・字は公えん、零陵郡湘郷県の人。県長となったが仕事をほったらかして泥酔していたのを劉備に見つかり処罰されそうになったところを、諸葛亮に「彼は百里(県)を治めるような人物ではありません」と言って助けられている。諸葛亮の死後を任される。諸葛亮が死去しても混乱せず、普段と変わりない様子であったので、人々も落ち着いたという。部下に対する讒言にも耳を貸さない、自分に対する誹りも気にしない人物。大将軍、録尚書事に任ぜられ、蜀の重鎮となる。魏を攻めようとした矢先に病死。諡は恭。
・諸葛亮に助けられた辺りはほう統と一緒。(正史のほう統は泥酔してないけど)人には得手不得手というものがあるということであろう。


統(ほうとう)179〜214

・字は士元、襄陽郡の人。若い頃は誰にも評価されなかったが、司馬徽に認められて有名になった。魯粛と諸葛亮の取りなしで劉備に目通りし、その軍師となる。蜀攻めに貢献するが、流れ矢に当たって戦死。諡は靖侯。
・『演義』では諸葛亮に対抗意識を燃やして結果的に戦死。周瑜といい、そういうライバル的シチュエーションはみんな昔から好きなんだね。でもこのシーン、彼の方が諸葛亮より器が小さいと取られてるみたいなので筆者はあまり好きではない・・。
 人物評価が好きで、その人をほめることによって向上させようと心がけている。自分が評価した陸績、顧劭(呉の丞相顧雍の長男)とも親友になったりしている。策士としての面が強いせいか諸葛亮と比べてダーティーなイメージがあるけど、実は結構人当たりのいい人なのかも。(まあ、荀攸だって策士でいい人だけど)


徐盛(じょ せい)?〜220代

・字は文嚮、琅邪国きょの人。黄祖討伐や濡須で勇戦し、功績を挙げた。孫権が魏の下につき、使者のけい貞を迎えたときに張昭とともに憤激して「我らがふがいないために我が君に貞などと盟約を結ばせてしまった」と涙を流し、後で貞は同行の者に「呉はいつまでも人の下についてはいまい」と言ったという。のちに曹丕の軍を迎えたときには、偽の城壁を作って曹丕を退却させた。
・本伝には書かれていないが、寒門の出の周泰の下につくのを嫌がったり、言いがかりを付けて蒋欽の部下を処罰しようとしたりと、大人げないところをかいま見せている。プライドはかなり高そう。
エピソードから分かるように、基本的には猛将タイプだが、武力バカではない。寡兵で大軍に当たるのも得意なようだ。


太史慈(たいし じ)166〜206

・字は子義、東莱郡黄県の人。若い頃から機知と義理堅さと勇気のあることで知られ、劉ようのもとにいたが、彼よりもかえって敵対した孫策に認められる。劉ようから離れた一時期勝手に太守を名乗り、山越を率いていたが、結局捕まり孫策の配下になる。身の丈7尺7寸、弓の名手で見事なひげの持ち主。
・彼の本伝は孫策と敵対した劉、交州で半独立体勢を築き上げた士燮と同じに立てられており、半分君主扱いなのである。結局は孫策の気持ちに応えることになるが。『演義』ではあまり知力が高くなく、むしろ完全に武力派として描かれているが、義理堅いことは変わりなく、その魅力も変わらない。本文ではそんな彼の死に際に、詩が捧げられている。人気がある証拠かも。鎮江市の北固山には今も彼の墓がたたずんでいる。(孫策と一緒の像も・・ある)


張温(ちょう おん)193〜230?

・字は恵恕、呉郡呉県の人。顧雍や張昭に高く評価され、孫権に召し寄せられた。蜀への使者に立ち、使命を果たして帰ったが、蜀の政治を賛美したことも相まって、孫権は彼の才と名声を不快に思い、張温が目をかけていた曁えん(きえん)が罪を得たのをきっかけにして、彼も罪に落とした。
・陸一族と血縁関係にあることから、呉の四姓(張、顧、陸、朱)の張氏であると思われる。
『演義』では諸葛亮に論破されたり、蜀への使者へ立ったときに傲然に振る舞って秦みつに言い負かされたりとさんざんな役割を振られているが、正史では秦に敬服しただけで、別に負けたわけではない。


潘濬(はん しゅん)?〜239

・字は承明、武陵郡漢寿の人。劉表に招かれたのちに劉備に仕え荊州の事務を行う。関羽が殺されると孫権のもとで働くようになる。陸遜といっしょに武昌を治め、また異民族の討伐にも功をあげた。孫権が寵愛した呂壱が専横をふるうと、陸遜とともに心を痛め、彼を除くよう諫めた。
・麋芳や士仁(一般的には傅士仁)らとともに蜀側にとっては「裏切り者」のイメージが強いが、呉においては忠勤に励んでいる。正史本伝で陸凱とともに伝が立てられていることからも、それがうかがえる。


陸績(りく せき)187〜219

・字は公紀、呉郡呉県の人。陸遜の年下の従父。6歳の時に袁術に会見した際に出された蜜柑を母親のために持って帰ろうとして、袁術に感心された。正しいと思うことを直言するため孫権に疎まれ、交州に左遷されて病死。博学で、著述や注釈をよくする学者タイプ。交州で無理矢理偏将軍にされていたときも著述をやめなかったという。
・『演義』で諸葛亮に言い負かされるシーンやゲームの影響で口ほどにもない奴という印象が強いが、じっさいは当時の著名人であるほう統や虞翻にも認められていた江東の名士。その早世が惜しまれる。


陸遜(りく そん)183〜245 陸一族系図

・字は伯言、呉郡呉県華亭の人。少年の頃従祖父の陸康を孫策に滅ぼされるも、その後孫権に仕え、山越討伐などで孫権の目にかなう。呂蒙といっしょに関羽を破り、夷陵の戦いで復讐に燃える劉備を退却させ、後には上大将軍、丞相にまで上るが最期は後継者争いで讒言に遭い憤死。諡は昭侯。
・どうもこの家系は剛直で自分の考えをはばからないらしい。直言を聞くのがつらい孫権にとって、彼は疎ましくなっていったのかもしれない。張昭がいい例である。その生き様は陳寿には好かれたらしく、数少ない1人で1巻の伝を持っている(陸抗の伝もついてはいるが)。もっとも、裴松之は彼を諸葛亮と比較して、無駄に一般の民を害したことを非難しているけど・・。


凌統(りょう とう)189?〜221以前?

・字は公績、呉郡余杭の人。15歳の時、父の凌操が戦死した後を継いで兵を預かる。賊討伐や曹操戦などで功をあげる。合肥では命がけで孫権を救出した。優れた人物と交流を持ち、彼らにも慕われていた。
・「凌」は正史ではさんずい。甘寧との確執が有名だが、実際に仲が悪かったのか、あと仲直りしたのかは不明。『演義』では結構甘寧の引き立て役かもしれない。(でも一応張遼と引き分けてたりして)激しいのは、正史本伝でも同じ。父親を侮辱されて泣いたり、自分と一緒に孫権を守って死んでいった部下を悼んで涙する、そんな彼の本伝はこっちまで泣けてきます。
 49歳で死去。となると、生年が正しいとすると没年は237年になる。実際は夷陵の戦い(221年)以前に死去しており、つじつまが合わない。仕官の経緯、最終官位(偏将軍)からみて、生年の方はたぶん間違いないと思う。と言うことは、もっと若死に?


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