荀攸伝・詳細版

注:正史を基準にした人物伝です。小文字青文字は、注釈です。基本的にまじめに書いてますが、筆者の妄想も入ってます。あと、年齢は数え年です。

・字は公達、潁川郡潁陰県の人。もちろん荀の従子。荀攸は幼い頃に父を失った。13歳のときに祖父の荀曇が亡くなったときに、元属吏の張権という男が墓守をしたいと申し出てきた。荀攸はこれを不審に思い、叔父の荀衢に「この者の様子は普通ではありません。何か悪いことを犯しているのではないでしょうか」と言った。問いただしてみると、人を殺して逃げてきたと分かった。このことから、荀衢は荀攸の才能を認めるようになった。

もうひとつ有名なエピソードに、荀攸が7、8歳の頃に酒に酔った荀衢が彼の耳を傷つけたが、荀攸は耳を隠して気付かれないようにしていて、それを後で知って驚いたというのがある。荀衢も、自分の兄が遺した荀攸の面倒を見ていたのかも。
計算すると祖父荀曇が死去したのは169年、この年には権力を握っていた宦官に反発した李膺らが処刑された第二次党錮事件が起こっている。荀曇の兄荀イク(程仲徳の名と同じ、または荀翌とも)は李膺らとともに殺されている。荀曇もこのとき禁錮させられた。

何進が権力を握ったときに、世の名士20人余りを招集した。荀攸はこのときに招かれ、黄門侍郎を拝命した。そのうち董卓が都を長安に移した。荀攸は議郎の鄭泰・何・侍中輯・越騎校尉伍瓊らと董卓暗殺を謀った。実行の直前に発覚し、荀攸と何は捕らえられた。何は心配と恐怖で自殺したが、荀攸は言葉つきも飲み食いも平然としていた。
董卓が死んだので助かり、官位を捨てて故郷に帰った。再び朝廷に召されて任城の相に任命されたが、行かなかった。彼は自ら望んで険固の地で人々も豊かな蜀郡の太守になったが、交通が途絶えて行けなかったので、荊州にとどまっていた。

何ギョウ、『後漢書』では自殺でなくて憤死っぽい(「憂憤して卒す」)。あれは荀攸を引き立てるための記述?ちなみに、荀攸は一説には人に頼んで(金品を掴ませてか?)獄を出たとも。
ここに出てくる鄭泰、本人は早死にしてますが弟の鄭渾が曹操に仕えてます(正史に伝あり)。さて、鄭泰は荀攸や華キンと仲が良かったらしい。ちなみに華キンは荀攸と同じ歳で、荀イクの後に尚書令に(漢の官位ね)なったらしい。諡も二荀と一緒。
そして、ここに蜀に注目した人がまた一人。実際に蜀に行ってたら、彼の人生もまた変わったかな?・・・いや、もっといい主を求めて去ってるかも・・・。

曹操が献帝を迎えて許を都とし、荀攸に書簡を送って言った。「今天下は大いに乱れ、智者は心を痛めているときなのに、蜀漢の地でこの動乱を眺めて長くなるのではないか」こうして荀攸を召して汝南太守に任じて、後に尚書に任じた。曹操は元々彼の評判を聞いていたが、会って話をして大いに満足し、荀と鍾に「荀攸は並の人物ではない。彼と事を計ることができれば、天下には何も憂えることはない」と言った。こうして、彼を軍師とした。

「君の代わりに計略を立てられるのは誰かね」と曹操に尋ねられて荀イクが薦めたのが、鍾ヨウと彼だった。本拠地を守る荀イク、後背の関中を抑える鍾ヨウ、出陣する曹操の側を固める荀攸、いいバランスです。
ものの本では荀イクと同じ時期に来てたりするけど。まあ、曹操の言葉で「ともに天下を渡り歩いて20年余り」という記述もあるから。でも董卓に捕まったり荊州にいたりしてたんじゃ・・・。

建安3年、張繍征討に従軍した。曹操に「張繍は劉表と協力しており、劉表の兵糧を頼みにしています。ここは兵を出すのを控えて、味方につけるのがよろしいでしょう。もし攻め立てると、助け合うに違いありません」曹操はこれに従わず、果たして劉表は張繍を救い、軍は不利になった。曹操は「君の進言を用いなかったためにこんな目に遭ってしまった」と言い、奇襲部隊を繰り出し、これを破った。
そののち呂布を討伐するが、下に立てこもりなかなか陥落しない。曹操は帰還しようとしたが、荀攸は郭嘉とともに「呂布は三たび戦って敗れ、その勢いはくじけています。参謀の陳宮の謀略も定まらない今これを攻めれば、呂布を破ることができます」と進言し、城を水攻めにし、呂布を生け捕りにした。

はい、正史では水攻めを進言したのは荀イクでなくて荀攸になっています。『蒼天航路』で荀攸が水攻めを進言するシーンで、「えっ、荀イクと郭嘉は?」と思った読者も少なからずいると思いますが、『演義』で荀イクに見せ場を取られたんだから大目に見てください(笑)
陳宮のことを「智あれど遅し」と言ってます。知力は認めてるけど臨機応変さに欠けるといったところか?逆にいうと、みずからの臨機応変さには自信をもってる?

袁紹が郭図、淳于瓊、顔良を差し向け劉延の守る白馬を攻めた。曹操が白馬の救援に向かうときに、荀攸は「わが軍は兵が少ないので勝ち目はありませんが、敵の兵力を分散すれば勝つことが出来ます。敵の後背を突くとみせかければ袁紹はそれに応じて兵を分けて来るでしょう。手薄となったところを軽装の兵で襲えば、顔良を捕らえることが出来ます」と進言した。こうして顔良を斬った。
その帰途、袁紹の軍と遭遇した。諸将は引き返すように言ったが、荀攸は「これは敵を捕まえる餌です。ここで退却してはなりません」と言った。曹操は彼に目配せして笑った。こうして輜重を餌にして誘うと、敵はこれに群がり、陣形が乱れた。ここで歩兵と騎兵を放って大破し、大将の文醜を斬った。
兵糧が尽きようとしていた頃、荀攸は袁紹の食糧運搬部隊を襲撃することを進言し、徐晃を薦めた。曹操は徐晃と史渙を向かわせ、これを破り、食糧を焼き払った。
そのころ、許攸が投降してきた。そして袁紹が淳于瓊らに1万の兵を率いさせて食糧を運ばせているが、大将はおごり高ぶり、兵士はだらけ、攻撃するいい機会であるとの情報を告げた。人々はこれを疑ったが、荀攸と賈だけはこの情報を利用することを曹操に勧めた。曹操は荀攸と曹洪を残し、自ら出陣し、これを破り、淳于瓊を斬り殺した。袁紹の将であった張と高覧は投降し、袁紹は敗走した。曹洪は二人の投降を疑ったが、荀攸が「張の計略が用いられなかったために、怒ってわが軍に来たのです。なぜ疑ったりするのですか」と言ったので、ようやく受け入れた。

このおとり作戦、『演義』では発案でなく曹操の策を見抜いて喜ばれるというシチュエーションだけど、荀攸の見せ場であることに変わりはない。
いずれにせよ、荀攸大活躍。やっぱり無視するわけにはいかんじゃん。

曹操が劉表と戦っている間に、袁譚と袁尚が争いを始め、袁譚が降伏を申し入れてきた。家臣の多くは、強力な劉表を先に討つべきで、袁兄弟はとるに足らないと考えた。しかし荀攸は、劉表に野心がないことを指摘し、袁兄弟が争っている間にこれを討つべきだと述べた。曹操は彼の進言を入れ、袁譚と和睦し、袁尚を破った。後に袁譚が背くと、曹操に従軍して袁譚を斬った。
12年の論功行賞で、荀の次に功績を認められ、中軍師に転任になった。魏が建国されると、尚書令となった。

魏公推戴の真っ先に名前が載っている。このへんで荀イクとは差別される(善し悪しはおいといて)が、個人的には、たとえごますり君扱いされても、能力を低く見られるよりはましと思う(気持ち良くはないけど)。
近い時代の士人としては、荀イクは節義を保ち、荀攸は生を全うしたことでそれぞれ人々の見本になったという位置付けがあったらしい。(袁宏「三国名臣序賛」より)

荀攸は考えが深く身の危険を防ぐ知謀を持っていた。常に策謀をめぐらせていたが、周囲の者でその内容を知るものはいなかった。しかし、曹操は常に「荀攸は愚かそうに見えて智を有し、臆病そうに見えて勇気があり、弱そうに見えて強靱である。善をひけらかさず、他人に苦労を押しつけない。その智は真似できても、愚かそうに見える振る舞いは真似できない」とたたえていた。曹丕にも「荀攸は人の手本となる人物だ。お前は礼を尽くして敬わなければならんぞ」と言っていた。荀攸が病気になったとき、見舞いに行った曹丕が供の者を遠ざけて拝礼するほど尊重された。
荀攸の親友である鍾は、「私は事を行うときに、繰り返し考えて変えようがないと思ってから荀攸に相談するが、それでも彼の考えは意表をつくものであった」と言った。荀攸は12の奇策を立てたが、その全貌を知るのは鍾だけだった。その彼も、荀攸の策を書き残せないまま死去したので、今は残っていない。
荀攸は孫権討伐の途上に死去した。曹操は彼の話をするたびに涙を流した。

荀攸と鍾ヨウについては「方技伝」にも載っている。仲の良い二人が朱建平に占ってもらったときに、若い荀攸(鍾ヨウの6歳下)が後事を鍾ヨウに見てもらうことになると言われて、その通りになって鍾ヨウが感嘆したというエピソードがある。同郷で名家同士、古くからつきあいがあったのでは?

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