曹仁伝・詳細版

注:正史を基準にした人物伝です。小文字赤文字は、注釈です。筆者の妄想も入ってます。あと、年齢は数え年です。

・字は子孝、沛国しょう県の人。曹操の従弟。少年の頃から弓術、馬術、狩猟を好み、のちに豪傑たちが蜂起したときに千人あまりの若者を引き連れて淮水、泗水の間を暴れ回って、そのまま曹操に従った。

ちなみに父は曹熾、祖父は曹褒と言います。曹熾の墓、残ってるらしいね。
曹操の旗揚げ年は191年、このとき曹仁23歳。黄巾の乱が起こった頃(184年)は17歳。おそらくこの時は曹操や夏侯惇あたりに「お前はまだ若すぎるから連れていけん!」とか言われて、すねて「俺だって戦えるんだ!」とか言って勝手に家を出ていったんでしょう。で、この間にだんだん仲間を集めて、曹操が董卓を討つために立ち上がったと聞いて、そいつらを率いて馳せ参じたんじゃないかなぁ・・と思う。この頃からきっと親分肌。

 それからは騎兵を率いて先鋒となったりして活躍した。また、別働隊となって陶謙軍や呂布軍を破った。そうして曹操が献帝を許に迎えたときに、曹仁の功績を評して広陽太守に任ぜられた。しかし、曹操は彼の勇気と才略を惜しんで、そのまま騎兵隊を率いさせた。
 曹操が張繍を征伐し、帰還の際に追撃され、士気が喪失したときには、曹仁が将兵を激励して奮戦したので、ついに張繍を破ることが出来た。

若武者曹仁大活躍。この辺はまだただの勇猛な武将?

 官渡の戦いでは袁紹の命を受けた劉備が南方を攻略し、多くの県がそむいたのを憂慮した曹操に「劉備軍は新しく袁紹の軍を率いているので、まだ使いこなせずにいますから、破ることが出来ます」と進言し、劉備軍を破り、そむいた県を取り戻した。また、別働隊の韓荀を鶏洛山で破り、袁紹の勢いをそいだ。
 河北が平定し、曹操に従って壺関を包囲した。曹操は城を落としたら生き埋めにするよう厳命したのでなかなか城を落とせなかった。曹仁は「城攻めをする際には、脱出口を示してやるべきです。必死で守る敵を攻めるのは良計ではありません」と進言し、籠城軍を降伏させることができた。

『演義』ではただのお留守番。官渡での活躍は言うなれば裏方さんの役なので、目立てないのも仕方がないのかも。

・征南将軍代行に任ぜられ、赤壁の戦いが終わると江陵に駐屯して周瑜の軍を迎え撃った。周瑜が数万の兵を率いて来攻し、先鋒の数千人がやってきたので、牛金に300人で迎え撃たせた。しかし、多勢に無勢、ついに牛金たちは取り囲まれてしまった。側近の陳矯たちは城の上から見て、みな色を失った。曹仁は大いに怒って、馬を曳けと命じたが、陳矯たちは、「数百人のために将軍自ら出るとは」と引き留めようとした。曹仁は返事もせずに鎧を付けて馬に乗り、数十騎を率いて城を出て、敵の囲みに突入し、牛金たちを救い出した。それを見た陳矯たちは、「将軍は真に天人なり」と感嘆した。しかしさすがに周瑜の大軍には耐えきれず、江陵から退却せざるを得なかった。

かっこいい〜(*^^*)さすがに『演義』もここばかりは載せてます。でも人数水増しされてる・・しかも、このシーンは後で周瑜が華々しく?曹仁を破る前置きだったりする(^^;)
ついでに、牛金は司馬懿の配下としてかなり後で出てくるので、結構若い世代なのかもしれない。

 その後は馬超討伐に従軍し、諸将を指揮して潼関を守り、馬超を破った。
 再び征南将軍代行として荊州を任される。侯音が宛で反乱を起こしたのを鎮圧し、改めて征南将軍に任ぜられた。そして直後に関羽が樊城に攻め寄せてきた。折しも漢水が氾濫し、于禁たちの軍が水没した。樊城も水没の危機にあり、曹仁率いる人馬数千が食料が尽きそうになりながら援軍を待っていた。「脱出するのが得策です」と言う者もいたが、曹仁は満寵の「水はまもなく引きます。今もし逃走すれば、洪河より南はもう国家(魏)のものではなくなります」という言を聞いて将兵を激励し、死んでも城を守り抜く決意を示したので、将兵はこれに感動して、二心を抱く者はいなかった。やがて徐晃の援軍が到着し、水も引いてきたので、囲みを破って出ることができ、関羽は敗走した。

さあ、問題のシーンです。どうにかしてにっくき曹仁をやっつけようとする蜀ファンの願いが、容赦なく『演義』に表れています。曹仁が南を攻めようとして関羽とぶつかったこと、満寵の諫めも聞かずに打って出たためぼろ負けしたこと、そのために樊城に籠城する羽目になったこと、とっとと逃げようとしたことはすべて創作です。ここではっきり言います、仕掛けたのは関羽が先です。そもそも夏侯淵が戦死したこともあり、南方に攻める余裕なんてこの時点ではなかったはずです。

・曹仁は若い頃は行いを慎まなかったが、成長して武将となると、法を厳しく守り、いつも傍らに法科を置いて、曹彰が烏丸を征伐する際に、曹丕は手紙で「将軍にあって法を遵守すること、征南将軍(曹仁)のようでなくてはならぬ」と戒めた。
曹丕が王位につくと、曹仁を車騎将軍に任じ、領邑二千戸を加増し、併せて三千五百戸とした。のちに大将軍に任じ、さらに大司馬に昇進させ、合肥に駐屯させた。
享年56歳。忠侯と諡された。

最後は朱桓の軍と当たり、敗戦してます。ただ、この時疫病が流行ってしまったので、ひょっとしてそれで具合悪くしていて、そのままぽっくり逝ってしまったんじゃないかなとも考えています。曹仁が死去したのが3月19日。曹丕が3月18日に全軍退却の布令を出し、魏軍はその月のうちに退却してます。
余談だけど、曹丕と曹彰って、曹仁好きそう。小さい頃に馬術だの弓術だの教えてもらって・・。先生には夏侯淵なんかもいたりして。うーんなんかホームドラマ(おい)。

退却!