・1801〜55。字は九淵、号は坦庵、通称は邦次郎。「太郎左衛門」は歴代伊豆代官の襲名。
・鎌倉以来の(今も続いてる)伊豆韮山の名家で世襲代官。学問好きかつ名代官の父の影響を受けて成長し、海防に高い関心を持つ。渡辺崋山を師と仰ぎ、協力を得るが砲台設置のための巡見において蘭学嫌いの鳥居耀蔵の恨みを買い、蛮社の獄の遠因となり、自身も嫌疑を掛けられる。その後長崎の砲術の大家である高島秋帆に学び、自らも塾を開いて人材を育てた。再三にわたり海防策を上申し、ペリー来航後にやっと本格的に国政の場を与えられるが、2年足らずの活躍の末に過労死した。
・最大の事業は大砲を鋳造するための反射炉の建造で、その現物は唯一完全な形で残っている。しかも単なる学者ではなく、何事においても実践本位というところが彼の真骨頂。ちなみに代官としても有能で、種痘を行ったり行商人に扮して領内を巡察したりと民政に力を注ぎ「世直し江川大明神」と称された。
・剣をよくし山猟が大好きな体育会系で、日頃慎ましいけど本質は熱血さん。で、芸術家肌。こんな彼だから当時のファン(?)も多い。ただ、佐久間象山は彼を嫌うこと甚だしい・・・。現在はネームバリューで象山が勝っているので、江川の知力は軽視されがち・・と思うのは、管理者の贔屓目でしょうね。
川路聖謨(かわじ としあきら)
・1801〜68。通称は三左衛門、左衛門尉、号は敬斎、頑民斎。
・九州日田の代官の子役人の家に生まれ、旗本の養子となり、実力で勘定奉行までになった幕末の俊英。
開明派で、蘭学の施主である渡辺崋山とも交流が深かった。崋山や高野長英らが罰せられた蛮社の獄では危うく難を逃れた。
・特に有名な活躍はロシア使節プチャーチンとの外交で、日本近代外交のさきがけとなった。
一橋派だったため安政の大獄で処分を受け、その後返り咲くも老齢を理由に引退。中風で左半身不随となり、江戸城総攻撃のうわさを聞いた彼は、ピストルで自殺した。
・幕府への恩義の気持ちと、何もできない今の自分を恥じる気持ち、それを考えると彼には「死」しかなかったのだろう。その最期にはぐっと来るものがあるけど、その開明的な資質と、あえて言うなら「古風」なところを持ち合わせたアンバランスさ?も、不謹慎ながら惹かれるのです。
・文武両道で明るくて世話好きで上戸のくせに甘党(これは関係ないだろ!)。こんな彼なもんで、たいていの人から好かれているのも分かる気がする。彼の悪口って、そういえばほとんど聞いたことないような。
高島秋帆(たかしま しゅうはん)
・1798〜1866。名は茂敦、字は子厚、舜臣、通称は四郎太夫、のちに喜平と改める。
・長崎の鉄砲方役人の出で、オランダを通じて西洋の進んだ兵学を取り入れた高島流砲術を興す。幕府に招かれて江戸で砲術演習を行い、江川英龍や下曽根金三郎に高島流砲術を伝授するが、蘭学の勢力が伸びるのを恐れた鳥居耀蔵によって謀反の罪をでっち上げられて投獄される。このせいで10年あまりも人生無駄にさせられてしまったんじゃ!怒れ!
・江川英龍は常に彼への師礼を忘れず、獄中の彼に差し入れを続けたり救済運動もしたりした。秋帆も英龍の死後なお江川塾の世話をしたりと、その知遇に答えた。
・ペリー来航直後に、阿部正弘に開国策を進言。しかも、幕末において直接・間接問わず彼の影響を受けた人は数知れず。もっと知られてもいいと思うんだけどなぁ。