第1回・田単
斉の武将、紀元前3〜2世紀頃
〜ピンチに強いと言えばこの人〜

・斉の下級役人だったが、燕が攻めてきた際に車輪の軸を折れないように補強して脱出できたのを買われ、即墨の守将に抜擢される。反間の計で楽毅を失脚させたのを皮切りに計略を駆使し、楽毅の後任の騎劫を火牛の計で撃破、奪われた七十余城をことごとく取り返し、その功により安平君に封ぜられる。
・その後も将軍となって城攻めを行ったりするが、大功をあげたという話はあまり聞かない。大軍を率いるよりも、奇策を用いて敵をしとめる策士タイプだと思われる。田単の悪口を言った貂勃に腹を立てずにかえって推挙して、のちに襄王に疑われたときには彼のおかげで助かったりと、人間的にも嫌なタイプではなさそう。

第2回・趙の武霊王
趙の君主、紀元前3世紀末、姓名は趙雍
〜早すぎた君主?〜

・騎馬民族の習慣である胡服騎射(馬に乗れるようにズボンをはいて、騎射する事)の便利さに注目。臣下の反対を押し切って、それを導入した。結果として騎兵を導入した趙は強力になり、最盛期を迎えた。自ら身分を隠して秦に偵察に行くというお茶目・・いや、破天荒な人でもある。
・寵姫の子である恵文王を位につけた後も、長男でありいったんは太子の位を廃した公子章のことが気になり、結局内乱を招き、自らは幽閉されて餓死してしまった。この最期と胡服を着けたことで武「霊」王と諡されるのはある意味仕方ないかも。それは胡服を着ると言うことがガチガチの儒者からは評価されていない証でもあるが、いわゆる「蛮夷」からもいいところを吸収するという、「中華思想」を打破しようとした点で開明的な人である。

第3回・燕の昭王
燕の君主、紀元前3〜2世紀頃、姓名は姫平
〜理想の君臣関係〜

・「まず隗より始めよ」(そこそこの人材を厚遇することにより有能な人材を集めろ、現在では言い出しっぺからやれと言う意味)という郭隗の意見を聞き、楽毅、劇辛、鄒衍などの賢才を集め、壊滅寸前の燕を立て直し、仇敵の斉をあと一歩の所まで追いつめるまでにした名君。彼の治世が燕の最盛期と言われている。昭王より全軍を任された楽毅はこの君主の知遇に応え、彼の死後、手紙によりその忠義の心を彼の跡継ぎの恵王に吐露した。ここまで臣下に想われるとは、君主冥利に尽きるというものである。
・余談だけど、この人神仙思想に凝っていたらしく、仙薬を飲んで死んでしまったという噂まで残っている。真偽はともかく、それって情けない気が・・。もし事実だったら楽毅は浮かばれまい・・。ちなみに、道教の世界では張良と同列の神様の列に加わってます。(ちなみに始皇帝は地獄の神様・・)

第4回・平原君
趙の王族、紀元前3〜2世紀頃、姓名は趙勝
〜いい人な、戦国四君の一角〜

・武霊王の子で恵文王の弟。足の悪い男を笑った妾を放っておくと食客は離れていき、妾を殺して男に詫びると食客がまた集まってきた話は有名。恵文王、孝成王の代に三度宰相となる。韓の上党の太守馮亭の言を入れて、長平の戦いでの敗戦を招く原因を作ってしまったが、趙都邯鄲が包囲された際には、楚との合従を定め、趙の危機を救った。
・詰めがやや甘く、趙を危機に追い込んでしまったりと、才覚の方にはちょっと疑問があるし、人間的器量も信陵君ほどはなさそう。しかし、食客の意見をよく聞いた点では評価できる。はた目に見ると、なんとなく助けたくなってしまう人かもしれない。平たく言えば、何だか憎めない人である。司馬遷に佳公子だけど大局を見る事ができないとも言われているのは確かに当たってる。


第5回・孟嘗君
斉の王族、紀元前3〜2世紀頃、姓名は田文
〜君とゆかいな食客たち〜

・斉の宣王の庶弟である田嬰の子。食客を集め、公平に待遇したのでその名声は各地に知れ渡っていた。「鶏鳴狗盗」のエピソードにも見られるように、周りにいるバラエティにあふれた食客が様々に活躍して、彼をもり立てている。彼もまたそんな食客の態度や行動を穏やかに見守っている。時々気性の激しさ故の言動を諫言されて反省するけど、それもご愛敬。のちに自分の名声が脅かされるのを恐れたビン王に遠ざけられ、魏で宰相となる。
・司馬光や特に王安石の意見などでは「無益な人間まで抱え込んで」と、どうも後世の人から見たら三流の人のようである。でも、そういういろんな人をも包んでしまう度量の広さ、王を恐れさせた力というのは確かに評価できると思うのだけど。

第6回・楽毅
燕の武将、紀元前3〜2世紀頃
〜劉邦も尊敬したその生き様〜

・先祖は魏の楽羊。はじめ趙の武霊王に仕え、その後賢人を招いていた燕の昭王の許に行き、5か国の軍を率い斉を破り70余城を落とすが、あと一歩のところで昭王の跡継ぎで、楽毅を疑う恵王に解任され、誅殺を恐れ趙に亡命する。その後燕軍は大敗し、後悔した恵王は彼が燕に攻めてくるのを恐れ、また呼び戻そうとした。その時の彼の返書は昭王への忠義心にあふれたものである。結局燕ともよしみを結び、趙で生涯を終えた。
・猛将っぽいイメージがあるが、5か国の感情を上手く利用するあたり、戦略眼も確かなものがある。ちなみに楽毅の名誉回復のために三国時代・魏の夏侯玄が書いた「楽毅論」を東晋の王羲之が写したものは楷書の名品とされ、のちに「楽毅(論)を写すと感情が高揚する」と言われた。

第7回・信陵君
魏の王族、紀元前3〜2世紀頃、姓名は魏無忌
〜四君最強?のやくざの親分〜

・昭王の子で、安釐王の末弟。
・戦国屈指の将才ももつし、何よりも腰を低くして市井の賢者とつきあう謙虚な姿勢で、各地から多くの士が集まった。もちろん食客の進言もよく取り入れ、自らの非を悟ることも忘れない。独断で趙の危機を救い、また故国の魏が攻められた際にも諸国の兵を率い、秦軍を函谷関まで追い返した。その名声を恐れ、秦の反間の言を信じた安釐王に遠ざけられ、失意のあまりついに酒色に溺れて死去する。
・やっぱり有能な人は君主に疑われるというのはお約束です。それにしても、その気はないのに兄に何度も疑われてついにはやけっぱちになった彼の最期は哀しすぎる。
・その生き様を劉邦が慕ったのは周知の通り。

第8回・春申君
楚の宰相、紀元前2世紀初、姓名は黄歇
〜駿馬も老いては・・〜

・四君のうち彼だけは王族ではない。楚の頃襄王に仕え、巧みな弁舌で秦に遣いし、楚を攻めようとした秦を説得し、かえって同盟を結ばせた。太子の完とともに秦の人質となり、秦の宰相范雎に説いて、帰国させることに成功した。
・のちに美貌の妹を後宮に入れようとした李園が現れ、その妹が春申君に寵愛されてみごもり、兄妹のたくらみで彼女は後宮に入る。楚王に産まれた子が実は春申君の子であるのを知れることを恐れた李園に警戒した食客の朱英の言を聞かず、結局口封じのために殺害された。
・若い頃は才能あふれてあんなに活躍したのに・・。司馬遷も「耄碌した」と言って嘆いてたけど、ほんともったいないよね。

戻る