荀攸と交流があった人たち

(しょう・よう)151〜230年
字は元常、潁川郡長社県の人。李や郭が長安で実権を握ったとき、献帝に協力して長安から脱出させた。荀に自分の代わりに計略を立てられる者として荀攸とともに推挙された人物。荀攸が曹操の側で計略をたてたのに対して、彼は長安におり関中の馬騰軍と渡り合い、これをよく防いだ。曹操が官渡にいたときには軍馬二千頭余りを提供し、「蕭何(漢の功臣)にも匹敵する」と言われた。
美女の幽霊に狙われたり、74歳(満年齢)で子供を作ったり(鍾会のこと)、老いてなお盛んな人(何が?)だった。

関係:同郷の親友
○正史では、二人の親交はけっこうおなじみ。荀攸の十二の秘策をただ一人知っていたり、荀攸が先に死ぬと、残された家族の面倒をみてやったり。
朱建平に人相を見てもらったときに、荀攸の方が先に死ぬと言われるとそのときが来たら荀攸の妾を嫁にやろうとか言ってた(結局嫁にやったらしい)。 名前とか呼んで親しげ(外字なので書いてないだけ←早よ作れ)なんだけど、もしかしてその妾ももともと鍾ヨウが荀攸に紹介してたのか?(笑)


鄭泰(てい・たい)
字は公業、河南郡開封の人。『三国志』「魏書」に伝のある鄭渾の兄で、注で紹介されている。『後漢書』では荀、孔融とともに立伝されている(鄭孔荀列伝第六十。中華書局版では「鄭太」)。豪傑たちと交わりを結び、名が知られていた。何進が政権を握ったときに宮中に召されるが、進言が容れられず、官を捨てて去った。後に兵力を持つことを董卓に恐れられ、招き寄せられて官につく。何や荀攸らと(王允や荀爽もからんでいるとの話もある)董卓暗殺を企てるが失敗し、逃亡する。袁術に拾われて揚州刺史に任ぜられるが、任につく前に41歳の若さで死去。

関係:親しい同僚
○何進のもとを去るときに、荀攸に「何公を補佐するのは難しいですな」と語ったとある。あと、下の華と同じく。


(か・きん)157〜231年
字は子魚、平原郡高唐県の人。何進が政権を握ったときに、鄭泰や荀攸とともに宮中に召される。董卓が長安に都を移すと地方に出ることを願い出て、豫章の太守となり、人々に慕われた。江東を攻略していた孫策の元に赴くと上客の礼をもって遇されたが、のちに曹操の招聘を受け、重用される。
品行方正で名高いニ荀と同じ諡をもらったりして清潔な人物といわれているが、財産を気にして学友の管寧に絶交されたり伏后(献帝の后)を強引に連行したりというエピソードが残されていたり(信憑性はおいといて)、なかなか謎っぽい(つーか、伏后のエピソードの出所は曹操を悪く書いてる『曹瞞伝』なんですけど・・・。管寧のは『世説新語』より)。ちなみに酒豪らしい。

関係:親しい同僚
○鄭泰と華、荀攸は仲が良かったらしく(軸は鄭泰かも)、若死にした鄭泰の残した息子に父の面影を見た二人は「鄭泰は亡びていないぞ」と言った。

え、荀や陳羣がいない?それはまた折りあらば・・・。

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