食い違う感情〜潘濬の場合〜

 潘濬、字は承明。蜀側から見れば、許し難い裏切り者である。楊戯の『季漢輔臣賛』では、麋芳、士仁、普とともに裏切り者として皮肉のような賛が寄せられている。

 しかし、呉の側から見ればその扱いはすっかり変わっている。陸機の「弁亡論」にも、行政手腕を表した功臣として名前が挙げられている。また、『三国志』の注にある『江表伝』には、荊州が呉の手に落ちたときに、病気と称して目通りしようとしなかった潘濬を孫権が無理矢理連れてこさせ、古人の例を引いて、泣いていた彼を説得させたという話を挙げている。少々誇張した感があるにしても、そんな話が残っていることからも彼が保身のために呉に降ったとは考えにくい。
 孫権が寵愛していた呂壱が重臣の顧雍や朱拠らを陥れていたが、孫権が太子である孫登の諫めも聞かなかった事を聞いた潘濬は、自ら呂壱を殺そうとしたという。感情の激しい人と言えばそれまでだが、我が身が可愛いならそのような事を考えるであろうか。
 陳寿は、潘濬を孫皓に直諌を行った陸凱と同じ伝に連ね、ともに「大丈夫として最高の仕事を成し遂げた」と評している。もとは陳寿も彼のことを「許し難い裏切り者」と思っていたのかもしれない。しかし、「呉書」を書くために呉に関する書物を読み、呉における彼の態度に触れたのであろう。そして、関羽と不仲であり、関羽が死んだのに対して他国で生き延びたというその生涯に、おそらくはまだ複雑な気持ちを抱きながら、それでも歴史家として彼の伝を書き上げたのである。

 『季漢輔臣賛』は、前記の4人の賛を「(ほかの)二国の笑い者になった」と結んでいる。しかし、潘濬に関してはそうとは言えないのではないだろうか。

 余談。彼らの中で厳密な意味で「裏切った」と言えるのは、麋芳だけのような気がする・・。

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