そもそも、『蒼天航路』で彼が気の毒な描かれ方をしていたのがきっかけでした。「そういえばこの人正史ではどんな人だったっけ?」と思い正史をめくってみると、そこにはちゃんと活躍している彼の姿が・・。 で、表題。「樊城で籠城している曹仁を救え!」という意味ではありません(ベタやなー)。 注目して欲しいのは本伝の中の「太祖壮之(たいそこれをそうとす)」「太祖益壮之(たいそますますこれをそうとす)」という記述です。前者は張繍に追われたときに軍を奮い立たせ、後者は敵に囲まれた部下の牛金の部隊をみずから数十騎を率いて救出した時に曹操が感心したということです。これを見ると、曹操が彼の武勇を愛でていたこと、逆に言うとそのぐらい彼の武勇には見るものがあったということがお分かりだと思います。張遼にも似たような記述があるし、曹仁も曹操軍屈指の勇将であった事は確かなようです。(でも2人とも諡は「壮侯」ではありません) ところで、ひさびさに『演義』を流し読みしていると、樊城で彼が逃げようとしていたシーンを目撃して、私はショックのあまりその夜はろくに眠れませんでした(実話)。しかもこのおかげで、正史を基準としたものでも「曹仁が樊城から逃げようとした」記述があったりして。恐るべし『演義』の影響力。ちょっと羅貫中(て言うか『演義』に至った一連の流れ?)を恨んでしまいます(笑)。実際樊城が落ちれば許昌も危ないって事ぐらい曹仁も分かってただろうし、(ほんとに地図で見たらすぐそこなんですよ)ほかの記述を見る限り、彼はそんな根性無しじゃないです(たぶん)。 当たり前だけど、彼の種々のメディアでの立場は正史を基準とするか『演義』を基準とするかがすべてです。(言い過ぎ?)陳舜臣氏の『曹操』では曹操の頼もしく可愛い弟的存在。病がちの曹操が一族を呼んだとき、樊城での水攻めに耐えた彼を見て「(前略)子孝がよく水の中で元気でいてくれた。子孝を見て、少しは元気が出たような気がする」と言っていたぐらい。 ちょっと初期の『光栄ゲームパラダイス』風に煩悩的に書いてみました。(え、違う?) |