諸葛亮の目標とした人物として、高く評価されたり「諸葛亮には及ばない」とされたりするのが楽毅です。そうなると諸葛亮に目を付けられたのが幸せなのか不幸なのかわかりませんね。 彼を引き立ててくれた燕の昭王の跡継ぎの恵王は、彼のことが嫌いでした。だから「楽毅が独立して王になろうとしている」というデマを信じ、彼を解任してしまったのです。そうして主君に信任されなくなった臣の末路は伍子胥や白起なんかを見るとわかるように、「死」と決まってます。 燕はそののち斉の田単に大敗し、後悔した恵王は趙に逃げた楽毅を責め、また詫びて、戻ってくるように使いをやりました。これに対する彼の返書には、昭王から受けた恩義と、それに報いる気持ちがつづられています。恵王はこれを読んで自分の過ちを悟り、結局楽毅は燕と再びよしみを結び、燕・趙両国から客卿に任ぜられたのです。 ちなみに、『三国志』の注にある曹操の言葉の中に、楽毅が趙に亡命してきたので、当時の趙王である恵文王が彼とともに燕を攻めようとしたが、彼は涙を流し、「私が昭王にお仕えしていたのは、今大王にお仕えしているのと同じ事です。もし今私が罪を獲て他国に追放されても、趙の奴隷にさえたくらみを起こすことは出来ません。まして昭王の跡継ぎに対してはなおさらです」と答えた、とあります。 |