楽毅〜守るもののために生きるということ〜

 諸葛亮の目標とした人物として、高く評価されたり「諸葛亮には及ばない」とされたりするのが楽毅です。そうなると諸葛亮に目を付けられたのが幸せなのか不幸なのかわかりませんね。
 結局斉の残り二城を落とせなかったのがいけないのか?それとも燕を去ったのがいけないのか?でもそれなら何も諸葛亮が楽毅を目標にする理由はないと思うのです。

 彼を引き立ててくれた燕の昭王の跡継ぎの恵王は、彼のことが嫌いでした。だから「楽毅が独立して王になろうとしている」というデマを信じ、彼を解任してしまったのです。そうして主君に信任されなくなった臣の末路は伍子胥や白起なんかを見るとわかるように、「死」と決まってます。
 楽毅にはそれがわかっていました。その上殺した主君だって「名臣を殺したバカな王」というレッテルを貼られてしまいます。ここで楽毅が死ねば当然恵王は悪評を被るし、そうなれば先王である昭王に申し訳が立たなくなります。だから燕に戻らず趙に亡命したわけです。

 燕はそののち斉の田単に大敗し、後悔した恵王は趙に逃げた楽毅を責め、また詫びて、戻ってくるように使いをやりました。これに対する彼の返書には、昭王から受けた恩義と、それに報いる気持ちがつづられています。恵王はこれを読んで自分の過ちを悟り、結局楽毅は燕と再びよしみを結び、燕・趙両国から客卿に任ぜられたのです。
 漢代の策士である通や主父偃はこの書簡を読んで泣かずにいられなかったと言います。諸葛亮もこれを読んで心を動かされたに違いありません。諸葛亮は「出師の表」を書きましたが、これは楽毅の書簡に多く影響を受けたものだとされます。彼の書簡に表れた昭王に対する忠義の心は、ちょうど諸葛亮の劉備に対する忠義心と通ずるものがあるのです。楽毅が燕を捨てて趙に走ったのに対し、諸葛亮は劉禅を裏切らなかったから諸葛亮の方が偉い、という意見は的を射ているとは思えません。

 ちなみに、『三国志』の注にある曹操の言葉の中に、楽毅が趙に亡命してきたので、当時の趙王である恵文王が彼とともに燕を攻めようとしたが、彼は涙を流し、「私が昭王にお仕えしていたのは、今大王にお仕えしているのと同じ事です。もし今私が罪を獲て他国に追放されても、趙の奴隷にさえたくらみを起こすことは出来ません。まして昭王の跡継ぎに対してはなおさらです」と答えた、とあります。
 こんな話も残っているように、楽毅は自分を認め、信頼してくれた昭王に忠義を尽くしたいと思い、その気持ちを守り通したのです。だからこそ諸葛亮は楽毅を自らの目標とする対象に選んだのでしょう。燕を強力にしたというだけの理由ではありません。

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