「殿、某に出陣を御命じ下され。」
袁紹軍南下の報を受けかつて汝南に割拠していた元黄巾の将であった劉辟は曹操を背き挙兵したのである。そして袁紹は客将・劉備に兵を与えると劉辟の援護を命じたのである。
袁紹の出身地であり関係者も多くいた汝南郡の多くの県はこれに呼応し袁紹の支持に廻ったのである。突如現れた汝南の袁紹軍に慌てた陽安の裨将軍・李通は守りを固めると共に曹操の根拠地でもある許都への攻撃を恐れ、曹操に使者を送ったのである。
その報を聞いた曹操の従弟・曹仁は顎鬚に手をやり黙って考え込んでいた曹操にそう訴えたのである。
曹操は鋭い眼光でそう訴えた男の表情を観察すると
「子孝(曹仁の字)よ…武勇だけではどうにもならんぞ…何か勝算があるのか…」
そう静かにしかし確りした口調で尋ねた。
曹仁はその鋭い眼光を正面から受け止めると
「あの叛徒どもの多くは我々が目先の急務に足をとらわれ軍を派遣できないと思っていたところに劉備等強力な軍が出現したため裏切ったものたちが多く、士気はバラバラです。劉備の軍さえ撃ち破ることさえ出来れば元の状態に戻るかと…」
曹仁はそう言うと一息ついた。
「しかも劉備の軍の多くは袁紹が与えた兵と聞きます。まだ手足の如く扱えるとは思えません。殿、今が好機です!!」
曹仁は熱く語ると曹操の目を再び正面から見据えた。
曹操は曹仁の分析した状況報告に内心曹仁の成長を驚きながらも冷徹な声で
「子孝…左将軍(劉備の官職)は老練だぞ」
というと口の端をあげニヤリと笑った。
「仁、騎兵6千をあたえる。陽安の李通と共に彼奴等を討て!!」
「はっ!!」
曹仁は曹操に認められたうれしさをかみ締めながら軍礼をほどこし曹操の天幕を退席した。
その姿を見送りながら曹操はまた一人信頼できる将軍が生まれたことをうれしく感じていた。
「くっ…側面からとは卑怯な…」
曹仁は乱戦の中そう叫ぶと血で赤く染まった大刀を一旋させた。
その一振りは新たに生きるものを物言わぬ物体と化していく。
しかし曹仁には余裕があった。この乱戦は予定のうちなのである。曹仁は味方の見事な負けっぷりに苦笑いを浮かべたい気持ちにもなっていた。
「曹将軍、そろそろです」
汝南太守満寵は曹仁の側に近付くとそう呟いた。
人の良さそうな顔をしたこの青年も体中を返り血で真っ赤に染めていた。
「よし、退却!!全軍退却せよ!!」
満寵からの合図を聞くと曹仁はそう叫んだ。
全軍は必死の想いで撤退を開始し始めたのである。
その様子を遠くから眺めていた劉辟はニヤリと笑うと劉備の方を見て
「どうだ、我が軍の強さは…敵は尻尾を巻いて逃げていくぞ」
と言うと会心の笑みを浮かべた。
劉備は曹操軍のあまりの弱さに何か裏があるのではと思ったものの知略よりも武勇に長ける曹仁の性格を考えこの慎重論を心の中で退けていた。
劉備軍にとっても久しぶりの大勝なのである。慎重さはうれしさによって駆逐されていた。
劉辟は自ら兵を率いて追撃を開始したのである。劉備の軍もそれに倣う。
一生懸命逃げる曹仁の軍の最後尾に劉辟・劉備連合軍が食らい付こうとした当にその時劉辟・劉備連合軍の後方で鬨の声が挙がったのである。
「何!!」
そう叫んで振り向く劉辟、劉備の目には彼等の後方から無人の野を駆け抜けるように自軍を切り裂いてくる一軍が見えた。
曹仁の命によって伏兵として出番を待っていた李通の軍であった。
勇猛さを以って知られた李通はいままでの鬱憤を晴らすかのごとく物凄い勢いで敵軍を切り裂いていく。
「かかったな」
曹仁はそう叫ぶと共に兵を返すと
「突撃!!徹底的に敵を叩け!!」
と大声で命じた。
この瞬間に勝敗は決していた。
曹仁の声に勇気付けられた兵卒達は雄叫びと共に混乱した劉辟・劉備連合軍に殺到していった。
曹仁は劉辟を見つけると一刀の下に切り捨てる。
かつて劉辟であった物は自分の敗戦を信じられないと言った表情を浮かべていた。
劉備はそれを眼の端で確認すると張飛、趙雲、陳到といった猛将に守られながら敗残兵をまとめどこかへと逃げ延びていった。
その報告を受けた曹仁は味方の勝鬨を聞きながら自分が一つ壁を乗り越えた事を感じていた。そして自分の中にあらたな何かが生まれた事も感じていた。
込上げて来る会心の笑顔が武骨な男の顔を彩っていた。
それは仕事を終え自信というものを得た男の笑顔であった。
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